当店のシャツができるまで
当店ではお客様の体に合わせた注文服を作り続けてきました。
当店のシャツのユニークなスタイルは、1枚1枚の過去の経験や知識の積み重ねによります。
そうした経験を生かし、来た時にパリッとアイロンがけされたシャツを着た時のような、着る人一人ひとりにより満足いただけるように心がけています。
良いシャツのためには、どう作るかはあまり問題ではありません。
肩や袖など、シャツがいかにお客様の体型や体のラインにマッチさせるかが大切です。
また全体にプラケットをふんだんにつくってシャツが着た時に型崩れしないようにし、カラーも首周りにきちんとカットして、外形を作り上げるのです。
人生で巡り会える満足できる完璧なオーダーシャツは、数える程しかありません。
シャツ作りには様々な経験が必要です。当店ではたくさんのオーダーシャツ作りで測った経験一つひとつから、モノづくりがスタートします。
1964 創業
弊社は、創業者である山中真喜雄(1936~2011)が、1964年にシャツメーカーから独立して開業した、ワイシャツのアイロン仕上げ業者として誕生しました。
弊社の創業者である真喜雄は、当時としては非常におしゃれで、シャツ好きが高じて、東京のシャツメーカーで職人として働いていました。
当時アメリカから1ドルシャツと言われるシャツを日本国内で作るという、現在でいう世界の工場的な構造が日本にはありました。
真喜雄はそんな世相もあり、結婚を機に独立し、アイロン業者としてそのキャリアをスタートさせたのでした。
高度経済成長期
真喜雄は、シャツのアイロン仕上げの職人としてスタートし、徐々に仕事を増やし、シャツを製造するラインを作り始めます。
時はまさに高度経済期、仕事は順調に増え、シャツ作りの需要は日に日に増えていきました。
1950年代になると、アイビーファッションが流行し、1960年代には有名なVANのような一世を風靡するブランドが登場します。
弊社はVANなどのシャツの製造を手がけ、縫製工場としての地位を確立していきます。
DC(デザイナーズキャラクター)ブランド期
一時代を築き、日本にシャツ文化を開いたVANの時代が終わりを告げた1970年代後半から、ファッションの世界は新しい時代の幕開けが始まります。
デザイナーズブランドと言われる、デザイナー全盛の時代が到来し、日本から多くのデザイナーがパリコレなどに参加するようになりました。同時にシャツの世界でも、デザイナーズブランドの勢いは止まらず、弊社も多くのブランドのシャツを作ることになりました。
弊社は日本のブランドそのほとんどのシャツを一度は作り、それが大きな経験として培われることになりました。
そして、時代と共に工場としての価値も高まり、1986年、ついに弊社は法人化することになります。思えばこの頃が、絶頂期でした。
バブル期、そしてバブル崩壊
1980年代後半から、弊社は※ある1社の専属工場として、シャツとブラウスを手がけました。
その会社は、アイビールックを踏襲し、いわゆるブリティッシュトラッド(英国伝統的スタイル)のブランドでした。VANに勤めていた有名なパターンナーの方がおり、私(山中満)はこの方にパターンやシャツの手ほどきを受けました。
平々凡々と、毎日シャツとブラウスを生産していた弊社でしたが、そんな弊社を根底から覆す時代の大波にさらされることとなります。バブル経済の崩壊です。
それまで日本国内で作られていたシャツ、ブラウスのほとんどは、アジア圏で安価に作られるようになり、日本国内に、シャツヤブラウスを作る仕事というのは皆無となってしまったのです。
私どもの取引先のブランドも衰退し、数年後に一度倒産してしまいます。
1993年、弊社は最大の危機に瀕しました。
※今でも、この会社のブランドは名前を変え存続しています。
平成大不況時代
バブル崩壊により、弊社の売上高はバブル期の10%にまで落ち込み、従業員は全て解雇、残ったのは私を含めて家族だけ。先代は気力を失ってしまい、隠居状態になってしまいます。
私は当時23歳という若さだったのですが、自身、なんとかその日を食いつなぐような生活を送らざるをえなくなってしまいました。まさに風前の灯火です。
弊社にとって、この大きな変化が起きたのは、驚くべき事にわずか1年足らずの間です。わずかの間にここまで激変してしまったのです。
そうなってみて痛感したのは、自分たちがいかに甘かったのか!ということです。当然、このような状態になることを、前もってどうして予測し得なかったのか?
下請け工場であるのだから、メーカーがダメになれば、連鎖的にこのような状態になることは予測できたはずなのです。
であるのに、ぬるま湯に浸かってしまって、下請け工場であることに疑問を抱かなかったのです。こんな簡単なことが、順風の時にはまったく気付かないのです。
私はこのときになって初めて、下請けを脱却する必要性を痛感したわけです。しかしながら、このときにはもう残念ながらすでに下請けでさえないわけです。仕事自体がないわけですから。
バブルが弾けてからの数年間、弊社は非常に厳しい状態が続きました。
もう本当にどこもやらないような、難有りの仕事や、特急の仕事などを、やってなんとか食いつないでいたのです。
再生へ 自社オリジナルへの道
不況期、弊社も何もせず、手をこまねいていたわけではなく、今後のことについて色々と模索はしていました。
一つは、まずは新しい得意先を探すこと、
もう一つは、自分のオリジナル商品で勝負すること。
で、両方ともやるにはやったのですが・・・
結局新しい得意先は見つからなかったのです。弊社は営業力もなく、いつの間にか陸の孤島と化して、忘れ去られていたのです。
もう一方のオリジナル商品は、100点ほど作って、デパートの催事などで出品したりしました。
出店の前日までは、半分くらいしか売れなかったらどうしよう?とか、品切れでスカスカになってしまったらどうしよう?なんて心配していたのですが、そんな心配はものの見事に裏切られました。
初日、二日目と続けて0、シビアすぎる現実を目の当たりにしました。
結果的には2週間で15点ほど売ることができ、売り上げは計15万くらいに達しました。
ただ2週間の間、売り場に立ちっぱなしで売上額の35%はデパートが取ります。
当然、利益など出るはずもありません。
このときに、販売ってこんなに難しいのか?と思い知らされたのです。
もちろん商品力の欠如もあるのでしょうが、それ以前にお客様に商品を見てもらえないのです。
通り過ぎるお客様に、上手に声を掛けたり、近づいたりも出来ず、挙動不審の、買え買えオーラ全開になってしまって、逃げられてしまうのです。販売慣れしていない、自分に気付かされました。
販売って、こんなに難しいのかと、生まれてはじめて思い知らされました。
それでも15点、売れたのは奇跡でした。しかも全然売れると思ってなかった品が売れて、売れると思っていた品が全然売れないのです。自分の販売センスのなさに嫌気がさしました。
ただ、この販売が大変だという経験が、のちのち大きな力になってくれました。
それと、消費者が求める物と、メーカーが提供する物とに違いがあるということも、このときに気付きました。
着たいのにサイズがない、サイズがあってもデザインがとても着ることができない、消費者の方にも悩みがあるのだと。
これが、のちに弊社のサービスに直結することになるとは、このときは思いもしませんでした。
結局経験は積めても、会社としてはこの数年間、何も生み出せず・・・・このまま終わっていても仕方がなかったです。
神風 インターネットの普及
こんな状態の弊社にも、時代の神風が吹くことになります。
インターネットの到来です。
1999年、この頃、ちょうど家庭にパソコンが本格的に普及し始めたころでした。周囲から、メールがどうとか、プロバイダがどうとか聞き慣れない言葉が聞こえてきまして、私も興味を持って安いパソコンを一台購入したのです。購入した理由はほとんど遊びです。
その安いパソコンが、弊社の運命を大きく変える事になろうとは、そのときは思ってもみませんでした。
パソコンを購入して1ヶ月もたたないある日、パソコン入門みたいな雑誌をちらっと読みまして、そこに運命を変える一文が載っていたのです。
「Wordで、ホームページを作ろう!」
有名なマイクロソフトのWordというソフトに、実はホームページを作る機能がついているのを皆さんご存じですか?私はこの雑誌で運良く知ることが出来、さらにさほど難しい作業ではないこと知りました。
そこで、ごく簡単なテキストだけのホームページを、サーバーにアップロードしてみたのです。そしたら、曲がりなりにも公開でき、誰も見ていないとはいえ情報を配信することが出来たのです。
これは感動でした。何の意味も持たないページでしたが、だれも見てはいないのですが、曲がりなりにも世界中に配信することができたことに、大きな可能性を見いだせたのです。
これは会社を復興させることが出来るかも知れない。直感でそう確信したのです。
で、さっそく、BtoBの企業向けのページを作ってみました。
結果的に、このBtoBのサイトも何も生み出すには至らなかったのですが、レスポンスは多少ありました。シャツの工場だと謳っているにもかかわらず、「犬の服を作ってくれませんか?」とか、「ボーリングのユニフォームを作れませんか?」なんて問い合わせがきたのです。
このときに、私は会社の復興にはインターネットしかないと確信したのです。
インターネットが弊社の営業力と販売力を補い、広告塔になってくれる。
今の陸の孤島のこの会社を、インターネットで日本中に宣伝することが出来ると気づき、本格的にネットに乗り出すことを決意しました。
で、やるからには、下請けではなく、自分たちのオリジナルで行こうと考えたわけです。
なぜ数ある中で、オーダーシャツを選んだかと言いますと、シャツを作る最低限の機械があったことと、シャツ生地の残りがあったこと、在庫を抱えなくて済むこと、そして需要というものを考えなくていいからです。オーダーなら需要はお客様が教えて下さるからです。
オーダーシャツが、弊社の市場調査ができないとか、販路がないとか経済的体力がないとか、弊社の弱点のいろいろを補ってくれたのです。
ネットショップ開店
いよいよ、オーダーシャツのネットショップを開店するときが迫っていました。
今思っても、オーダーシャツ以外では、弊社は終わっていたと確信しています。
さらに幸運なことに、ネットに詳しい知人が、「ソネットがネットショップ向けのサービスを提供しているよ」と教えてくれました。調べてみると、ちょうどソネットがEストアーと共同で、レンタルサーバーとストアツール(カゴレジ)のサービスを提供していました。かのEストアーさんの出始めの頃で、カゴレジのだけのサービスを提供していた頃です(ソネットさんのサーバーは事情により利用できず)。Eストアーさんのサービスをこの当時から知ることが出来(それから現在まで11年以上お世話になることに)、ストアツールを利用することが出来たのは大変な幸運でした。偶然教えてくれた知人(それ以来、会えてません。)にもEストアーさんにも、とても感謝しています。
2001年3月28日。ついにネット開店!
ところが、満を持してオーダーシャツのサイトを開店したものの、期待とは裏腹に、まったく売れませんでした。3ヶ月間全く売れなかったのです。来る日も来る日も、売れるための改善を繰り返したのですが、その甲斐もなく、全く売れませんでした。
元々乗り気ではない私以外のスタッフ(全員家族ですが)の中から、「やめよう」という声が上がりました。
私自身も、レンタルサーバー代すらも惜しくなってきた矢先でした。
半分忘れかけた頃に(開店100日目くらい)、4ヶ月目にして初めての注文が入りました。
スタッフ一同、何が起こったかわからないくらい驚き、もう大喜びでした。
今でも鮮明に覚えています。「守部さん」という、都内の方でした。この方が居なければ、今の弊社はきっとなかったでしょう。
ちなみに次の注文までにまた2週間かかりました。
でも0と1では大違いです。努力しようという気持ちになれます(笑)。
それからは日夜、サイトの構築にいそしみました。
その後、売り上げは徐々に伸び、気の遠くなるような歳月と、恥ずかしくなるような数々の失敗を経て、、、、
10年間で様々な問題があり、三回くらいもう絶対ダメだと思ったことがありましたが、乗り越えることが出来まして、今では、バブル期と同じくらいの売り上げとスタッフ数を抱え、日夜、お客様にオーダーシャツを届けております。
日本一の賞を受賞するまでに
ネット開店から7年、おかげさまで新聞やマスコミ、雑誌などでも取り上げてもらえるようになり、シャツの専門店としても、ネットショップとしても有名店の仲間入りを果たすことができました。
そして2012年、イーストアーアワードにおいて29,941店舗の中から、有名店店長の投票で1店舗を選ぶ「店長が選ぶ店舗賞」を受賞するにいたりました。なんと日本一の称号をいただいたのです。
思えば、平成不況で、倒産寸前だった弊社が、日本一とまで言われる会社になれたのは、全てお客様と、周囲の皆様のおかげです。
これに慢心せず、これからも良いシャツを作り続けていきたいと切に願う今日この頃です。